分化誘導療法確立までの科学論文にみられた誤りとその功罪

 

梶ケ谷保彦

 

 「癌の正常化」すなわち分化誘導というかつての癌治療理念とは全く発想の異なる治療法は,基礎医学研究者たちの地道な研究を積み重ねることによりようやく最近になって現実の治療法として確立してきた1).

 まずこの研究は組織培養法の技術的進歩に支えられ発展した2).組織培養法は,生体の一部である組織や細胞を取り出して培養器内で生育させる技術である.この細胞培養による研究から,正常細胞のみならずある種の癌細胞は分化誘導因子を添加した培養系において,形態変化を起こし正常成熟細胞のもつ機能を獲得,すなわち分化することが明らかにされた.特に血液学の分野ではこの組織培養の技術の進歩により種々の白血病細胞の株化に成功してきた2).これを用いた研究により,白血病細胞は試験管内で分化誘導因子を添加することにより,形態変化を起こし正常機能を獲得,つまり分化誘導可能であることが,1969年,Ichikawa3)により実験的に証明された.以来,追試を含め多数の基礎および臨床の科学論文が発表され,分化誘導療法としての普遍的な臨床応用の可能性が長年にわたり模索されてきた1).

 これまでに種々の株化白血病細胞に対しビタミン,ホルモン,造血因子,サイトカインなどの分化誘導因子の存在が報告され臨床応用が散発的に試みられてきたが,統計学的な有意差をみる報告はなかった.しかし1988年,中国上海のHuang,Wangら4)がビタミンAの活性型であるall-trans retinoic acid(以下,ATRA)を使用し,24例の急性前骨髄球性白血病(FAB分類:M3)において23例(96%)の完全寛解を得るという驚異的ともいうべき臨床効果を発表して以来,世界各国からもその有効性を追試,確認する報告1)が多数,相次いでなされ,白血病の分化誘導療法は新しい治療手段の1つとして確立されるにいたったのである.

 自然科学の発展は,これまでに発表,報告されてきた科学論文の実験結果から生まれる結論に基づく定説や理論を,後世の科学者が新たに覆すことを繰り返してなされてきた.Isaac NewtonとAlbert Einsteinとの関係が示すように理論的誤りであってもNewtonの法則は人類にとって偉大な功績となったのが最も顕著な例である.しかしこれまでの科学史においては必ずしも功績ばかりでなく,科学の発展を遅らせた誤った科学論文も,特に最近の先端科学雑誌に散見されることが指摘されてきている.やはり分化誘導療法確立にいたる研究の歴史においても,1969年のIchikawaの報告3)から1988年のHuangらの画期的な報告4)にいたる20年たらずの間に,いくつかの科学論文の結論の誤りに基づく功罪により,行き詰まったり,思わぬ進展をみせたりしているのである.ここでは分化誘導療法確立までの科学論文にみる誤りがその進歩に及ぼした功罪について述べてみたい.

 最初に白血病細胞が分化することを発見し,分化誘導療法の可能性を示唆した基礎的研究は前述のごとく,Ichikawa3)によりなされた.彼はSLマウス自然発生骨髄性白血病からM1細胞株を樹立し,マウス胎児細胞の産生する蛋白性分化誘導因子(differentiation inducer,D因子)によってマクロファージおよび顆粒球様細胞に分化することを見いだした.のちにこのD因子はサイトカインの1つであるleukemia inhibitory factor(LIF)とアミノ酸配列が同一であることが判明している.この研究は,これまで白血病細胞とは分化の停止した状態で不可逆的とされていた定説をくつがえしたものであった.しかしこの段階では多くの臨床家たちの間では臨床応用は夢であり,限られた条件での試験管内でしか認められない特異な現象としてとらえられていた.

 1971年には,FriendらによりFriendウイルス誘発マウス赤白血病細胞が極性化合物

(dimethyl sulfoxide)によりヘモグロビン合成能を示す赤血球様細胞に分化することが発見された.同時期に鉱物油誘発骨髄単球性白血病のBALB/cマウスからWEHI-3B細胞株も樹立され,1979年にMetcalfら5)は造血因子によりWEHI-3B細胞が遊走能をもった細胞に分化することを報告した.ついでヒトの白血病細胞でも,Lozzioらはヒト慢性骨髄性白血病急性転化の胸水細胞からK-562細胞株を樹立し,Heminによってベンチジン陽性の赤芽球の性質をもつ細胞に分化することが判明,またCollinsら6)はヒト前骨髄球性白血病細胞株HL-60の樹立に成功し,Breitmanら7)がretinoidに高い分化能を示すことを見いだし,その後,極性化合物,phorbor esterによっても分化が誘導されることが明らかになった.これまでにこれらのマウスおよびヒト白血病細胞株を用いて種々の分化誘導因子が発見され基礎的研究が蓄積され,細胞の増殖・分化機構の研究モデルとして極めて重要な役割を果たしてきたとされている1)2).

 ここではこれら研究の実験結果の解釈に誤りのあった4つの事例について述べる.その中の1つの誤りは後の血液治療学の発展に大きく貢献し,2つは分化誘導療法の臨床応用の可能性を逆に悲観的なものとし,残りの1つは正しいものとした前提により臨床応用したところ良い結果がでてしまったが,前提とした論文は,実は後に誤りであったことが判明したという皮肉にも偶然の科学的貢献となったものである.

 先に述べたように,血液幹細胞の発見者であるMetcalfによる白血病細胞の分化誘導に関する一連の研究成果があるが,彼は最初に造血因子のひとつであるマウスGM-CSF

(顆粒球・単球系コロニー刺激因子)によりWEHI-3B骨髄単球性白血病細胞が分化誘導されることを血清を含む軟寒天培養系を用いたコロニー形成法により見いだした5).しかしこれには2つの誤りがあってそのひとつをMetcalf自らが後に訂正し,現在の造血因子治療の発展に大きく貢献することになった.彼がGM-CSFとしていた液性因子をさらに,この分化誘導活性を指標にして分離カラムによる精製を進めた結果,実は分化誘導因子活性を有するのはGM-CSFからさらに分離された別の分子,マウスG-CSF(顆粒球系コロニー刺激因子)であることが判明したのである8).これは血液学のうえでは重大な訂正で,この因子の純化によりマウスG-CSFの物質としての存在が明らかとなり,それがヒトG-CSFの発見につながった.さらにアミノ酸配列とそれに対応する遺伝子配列が決定され,遺伝子組換え技術により数年間でG-CSFの大量生産が可能となった.そして臨床の場においては顆粒球減少性疾患を有する患者にとって,まさに福音ともいえる効果的な治療薬として画期的な役割を現在,果たしているのである.一方,このように造血因子治療が発展すると同時に,もうひとつの誤りが発見されたのである.遺伝子組換え型G-CSFが得られるようになり,白血病細胞の分化誘導実験が,これを用いて追試されたのである.WEHI-3B細胞ではまずB*hmerら9)により白血病細胞の細胞濃度が高い条件下ではG-CSFによる分化誘導現象を認めるが細胞濃度の低い条件下では分化誘導が観察されないことをみいだした.さらに著者ら10)11)は,分化に影響をおよぼす血清を除去した培養系を用いて厳密に検討したところ,G-CSFによるWEHI-3B細胞の分化は,実はその直接作用ではなく,二次的にひきおこされる自発的分化(分化自己誘導12))の結果であることが判明した.つまりG-CSFは白血病細胞の直接的な分化誘導因子ではなかったのである.現在ではG-CSFの白血病患者への臨床応用が進んでいるが,やはり分化誘導因子としての普遍性は低く,一律的な臨床応用は比較的,困難な状況にある.それは急性骨髄性白血病患者に対しては,これまでに芽球が増加する症例や反対に分化が誘導される症例もあり,反応性は多様で,その投与には個々の症例で慎重でなければならないとされている1).従って現在の急性骨髄性白血病に対する造血因子の臨床応用としては,化学療法後の顆粒球減少症に対する主作用を期待して用いられており,その副反応として,白血病細胞の分化が誘導される一部の症例では,化学療法との相加効果を期待し,逆に芽球が造血因子によりcyclingに導入される症例では,同時期にS期特異性の高い抗白血病剤を併用し,薬剤感受性を高めることによる治療成績改善がはかられている.従って造血因子の臨床応用を進める際には,普遍性の高い分化誘導療法剤としての有用性については悲観的な側面が強くなったのである.

 もうひとつ,結果的に分化誘導の臨床応用を悲観的なものとしてしまった報告があった.1983年にFranceのCastaigenら13)は急性白血病21例に対し,Ara-C少量療法を行い12例に寛解が得られ骨髄の低形成をきたさないことより分化誘導効果によるものと推察し,いよいよ現実のものとなるかと思わせたが,その後,各国で追試が行われた結果,Ara-C少量療法による作用は殺細胞によるもので分化誘導効果のためではないと結論づける報告14)15)が相次いでなされ,Castaigenらの結論は否定された.これによりやはり分化誘導療法は試験管内でみられる特殊な現象であるとの印象を強くしてしまい,かえって臨床応用の可能性について悲観的なみかたが強くなってしまった.従って多くの臨床家たちは思い切った臨床試験をためらうようになってしまったのである.

 一方,HL-60細胞を用いた一連の分化誘導の研究によっても,先にも述べたように

retinoidによる白血病細胞の分化誘導療法の可能性が模索されてきた.当初,Collinsら6)はHL-60細胞はヒト前骨髄球性白血病(FAB分類:M3)由来の細胞株として樹立を報告した.そしてBreitmanら7)がこの細胞がretinoidに高い分化能を示すことを見いだし,ビタミンA誘導体は副作用の少ないことから,M3に対する分化誘導療法薬剤としての有用性が大きく期待された.そしていくつかの散発的な有効性を示唆する報告のすえに,ついに1988年,上海のHuangら4)がretinidであるATRAを使用し,24例のM3の症例において23例(96%)の完全寛解を得るという臨床効果を発表した.その後,有効性を追試,確認する報告が多数,あいついでなされ,M3の分化誘導療法は新しい治療手段として確立されたのである1).

 ところが,同じく1988年にDaltonら16)はHL-60細胞には15:17転座がみられないことに加え,HL-60の由来となった患者の発病時の光顕所見,電顕所見を再検討した結果,実はFAB分類M3ではなくM2由来であると結論づけ,由来を訂正したのである.しかし最近,行われている分化誘導療法の実際の臨床結果をみるとATRA療法はM2の症例には分化誘導効果は弱く,M3の症例に対しては先に示したような優れた分化誘導効果がみられ,当初,M3由来とした誤った判断は皮肉にも分化誘導療法を大きく発展させることに貢献したのであった.

 以上が分化誘導療法確立までの科学論文にみる誤りとその功罪についてまとめたものである.最近の基礎的な研究では分化誘導の作用機構としてアポトーシス(プログラム細胞死)とのかかわりが相次いで報告17)されており,分化誘導とは本来,細胞のもっている死の遺伝子プログラムを誘導することという仮説に基づいて研究が進められている.従って,今後,細胞生物学的,分子生物学的な本質にせまる成果が期待されている.神がつくった死の遺伝プログラムを人類が調べて,見て,操作してという時代がやってくることが予想される.そしてその発展の過程にはやはり,いくつかの科学論文の誤りの発見とその訂正が繰り返され,人類は神の決めた自然の摂理に次第に近づいていくと思われる.

 

        文    献

1)梶ケ谷保彦: 白血病分化誘導療法の基礎と  臨床.共済医報 43:331-339,1994.

2)梶ケ谷保彦,佐々木秀樹,生田孝一郎,松山 秀介,平林容子,井上達: 白血病細胞の無血 清培養. Hum Cell 6:49-56,1993.

3)Ichikawa Y: Differentiation of a cell   line of myeloid leukemia. J Cell Physiol 74:223-234,1969.

4)Huang ME,Ye YC,Chen SR,Chai JR,Lu JX,Zhoa L,Gu LJ,Wang ZY: Use of all-transrerinoic acid in the treatment of  acute promyelocytic leukemia. Blood 72  :567-572,1988.

5)Metcalf D: Clonal analysis of the action of GM-CSF on the proliferation   and differentiation of myelomonocytic   leukemic cells. Int J Cancer 24:616-623,1979.

6)Collins SJ: The HL-60 promyelocytic leukemia cell line: proliferation, differentiation,and cellular oncogene   expression. Blood 70:1233-1244,1987.

7)Breitman TR,Selonic SE,Collins SJ: Induction of differentiation of the human promyelocytic leukemia cell line  (HL-60) by retinoic acid. Proc Natl Acad Sci USA 77:2936-2940,1980.

8)Nicola NA,Metcalf D,Matsumoto M, Johnson GR: Purification of a factor inducing differentiation in murine myelomonocyticleukemia cells: Identification as granulocyte colony-stimulating factor. J Biol Chem 258:9017-9023,1983.

9)B*hmer RM,Burgess AW: Granulocytic colony-stimulating factor (G-CSF) dose  not induce differentiation of WEHI-3B(D+) cells but is required for the survival of the mature progeny. Int J Cancer 42:53-58,1988.

10)Kajigaya Y,Ikuta K,Sasaki H,Matsuyama  S: Growth and differentiation of a murine interleukin-3-producing myelomonocytic leukemia cell line in a  protein-free chemically defined medium.  Leukemia 4:712-716,1990.

11)梶ケ谷保彦,佐々木秀樹,生田孝一郎,松山 秀介:純化遺伝子組換え型ヒト造血因子に 対するマウス骨髄単球性白血病細胞(WE HI-3B-Y1)のclonal response: 無血 清培養による検討. 日血会誌 52:835-841, 1989.

12)Kajigaya Y,Ikuta K,Sasaki H,Funabiki   T,Koiso Y,Matsuyama S: The production   of differentiation-autoinducing activity by WEHI-3B D+ leukemia cells.  Exp Hematol 17:368-373,1989.

13)Castaigne S,Daniel MT,Tilly H,Herait   P,Degos L: Does treatment with Ara-C in low dosage cause differentiation of  leukemic cells?. Blood 62:85-86,1983.

14)Lyden M,et al: Low dose cytosine arabinoside: partial remission of acute mueloid leukemia without evidence of differentiation induction.  Br J Haematol 57:301-307,1984.

15)Perri RT,et al: Low-dose Ara-C fails   to enhance differentiation of leukaemic cells. Br J Haematol 59:697-  701,1985.

16)Dalton WT,Ahearn MJ,McCredie KB, Freireich EJ,Stass SA,Trujillo JM: HL-  60 cell line was derived from a patient with FAB-M2 and not FAB-M3. Blood 71:242-247,1988.

17)梶ケ谷保彦: アポトーシス(プログラム細  胞死). 小児科 35:333-336,1994.

 

 

 

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